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より早く、より強く、より精密になるためのプレイは本当にゲームプレイなのか

Published onDec 14, 2016
より早く、より強く、より精密になるためのプレイは本当にゲームプレイなのか
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より早く、より強く、より精密になるためのプレイは本当にゲームプレイなのか

――『スペースインベーダー』のパラドックス――

『スペースインベーダー』のゲームプレイは非常にシンプルなものだ。スクリーンの上部から落ちてくる侵略者の群れがスクリーンの底に辿り着くとゲームオーバーになってしまう。プレイヤーの目標がゲームオーバーになる前にすべての敵を打ち落とすこと一つだけなのだ。しかし、どれだけ多くの敵を殲滅したとしても、プレイヤーのもとには勝利の女神がやってこないのだろう。このゲームには初めから勝利という結末が用意されていないからだ。プレイヤーが目の前の敵を倒せば、新たな敵の群れはすぐさまに現れ、しかも以前よりも速い速度で押し寄せてくるのだ。どんどん早くなる敵のスピードに一刻も早く適応することが『スペースインベーダー』のもっとも核心となるゲームプレイ経験といえよう。

プレイヤーが対応しなければならない速度は二種類ある。一つは、敵が落ちてくるスピードだ、これはゲームオーバーになるまでのタイムリミットである。もう一つは、敵がスクリーンの左右のどちらかの端から反対側へ移動するスピードである。実際のゲームプレイでは、たとえばスクリーンの左から出発した侵略者の群れの一番右にある敵がスクリーンの右端にたどり着いたら、群れ全体が一定の距離を落下するようになっている。敵が落ちるスピードより、プレイヤーは多くのときこの横移動のスピードを相手にしている。横移動のスピードは、敵が落下するまでの時間制限として捉えることもできるが、落下のスピードに対応できるようになるまでの時間的な猶予としても捉えられよう。つまり、『スペースインベーダー』はプレイヤーにより速い速度をひたすら押し付けるのではなく、そのスピードに慣れるまでの準備期間も提供しているのだ。

だが、インベーダーはスペースからやってくるのと同じ、スピードはプレイヤーの外部からやってくるものだ。それはプログラミングされたスピードであり、機械のスピードである。『スペースインベーダー』のスピードに対応することは、プレイヤーが自らのリズムを放棄し、機械のスピードと同化することを意味する。横スピードという準備期間において、プレイヤーは敵の移動のリズムに合わせて、自分の手の動きを精密に調整する。この期間は、プレイヤーが自らの身体のリズムを機械の速度に合わせる期間であり、外的な速度を内面化する過程である。『スペースインベーダー』で高いスコアを狙うために、無駄な動きを一切やめ、効率よく得点するために、プレイヤーは身体をゲームのリズムにのみ反応する機械にする。あらゆる動きは縦と横の二つのスピードにしたがってなされ、思考する余裕はむしろ効率性向上の邪魔となる。

このような現象は、『スペースインベーダー』のパラドックスである。プレイヤー自分の意志でゲームをプレイしているつもりだが、いつの間にか、ゲームの速度に準ずるマシンになってしまう。これはもはやプレイとは呼べず、パターン化された肉体労働に等しい。ゲームは我々に新しい世界を見せなくなる。我々はゲームによって単純化され、速度の奴隷にされる。『スペースインベーダー』は勝てないゲームだというのは、単純にプログラムがそう作られたからだけではない。プレイヤーがゲームに没入してしまい、自分の身体がゲームによってプログラミングされてしまうことは、人間と機械との戦いの敗北を意味する。機会を支配する主人とうぬぼれていながら、実は機械を操作するための奴隷なのだ。

ゲームをプレイするのが下手だと意識し始めたとき、プレイヤーはすでに自分の身体がゲームによって支配される危険にさらされている。自分の行動が下手、あるいはルール違反と認識できるために、ゲームのルールに疑問を抱かず、システムを内面化した視点で自らの行動を評価しなければならない。そのような状態において、プレイヤーはゲームをプレイすることからもはや何らかの刺激も発見も受けられなくなるだろう。ゲームプレイは単純にプログラムを遂行させるための機械的な手順に過ぎない。

コンピューターによって支えられるデジタルゲームのマジックサークルは容易に破れられない。これは、ゲームシステムに取り込まれてしまえば容易に抜け出せなくなることをも意味する。しかしシステムの中にはまっていては、ゲームは日常生活と何ら変わらず、新鮮さを失う。プレイヤーも次第に思考することをやめ、動物的な身体感覚でゲームをやっていく。システムの中にいながらシステムの外側を常に意識しなければならない、ゲームをプレイしながらそれと距離をとらなければならない。自分がゲームをプレイしているのだということを常に念頭におかなければ、ゲームは成り立たなくなる。これが『スペースインベーダー』をプレイするときのパラドックスであり、デジタルゲームをプレイすることのパラドックスなのである。

Comments
2
Martin Roth:

自分の身体がゲームによってプログラミングされるのは、Virilioのように確かに敗北と言えるかもしれません。しかし、人間が一瞬だけでも別の何かに入れ替わるような働きも認めるべきではないでしょうか?つまり、ゲームを通じて他者(その他者の質はまた別の問題かもしれませんが)になりうるのではないでしょうか? また、ゲームがデザインされている以上、機会ではなく、デザイナーの意図に支配されるという解釈も考えられるように思います。抵抗しながら機会に支配されているのはデザイナーなのかもしれません。

Martin Roth:

とても面白い観点をありがとうございます。この解釈は[*Paul Virilio の発言*](http://www.infopeace.org/vy2k/sans.cfm) の批判に似ています。要するに、プレイヤーはデジタルゲームにおいて自由を失い、本来の意味での(creative)な「遊び」が不可能になるという批判です。その意味で、この議論がVirilioや、「遊び」という概念について考えられてきたこととより直接結び付けられるのではないかと思います。そうすることで、より広い議論に貢献できるように思います。また、HuizingaやCailloisの遊び概念に照らし合わせてみることも面白いかもしれません。彼らの定義でこれは遊びといえるようにも思いますが、どうでしょうか。